良いタイミングでホームルーム開始五分前のチャイムが校内に鳴り響いた。
 なんだか随分と長く時雨先輩と話していたような気がするが、しかし実際にはそれほど時間が経っていなかった。
 しかし時雨先輩は完璧に時間の流れを察知していたようで、悠然と、当たり前のように立ち上がる。

「さぁさぁ青君。早く教室に向かわないと遅刻になっちゃうわよ?」
「……そうですね。ありがとうございます、夢穂さんのことを話してもらって」
「んふふふふ。そう言ってもらえると、青君のために時間を作ってあげた甲斐があるってものねぇ」

 そう微笑む時雨先輩の左手からは、いつの間にか腕輪が外されていた。
 夢穂さんの治外法権自治特区では腕輪を外しても大丈夫というルールらしい。
 僕と時雨先輩は部屋を後にして、それぞれの教室へと向かった。

「…………」

 僕の教室、夢穂さんと一緒のクラスに向かいつつ、僕は考える。
 腕輪。
 左手の腕輪。
 今の技術では例えば夢穂さんの『小さな立法権限(アウトスタンディング・ローカルルール)』や妹の『瓦礫の積み木(クラッキングクラッカー)』は制御できない。
 しかしそのうち両者とも規制できてしまう時代が来るかもしれない。
 腕輪による能力の規制。
 これが始まったのはごく最近の話で、確か三年ほど前からだったか。
 能力者の犯罪を抑止するため、まず初めにこの辺りの地域限定で施行された新しい法律である。
 この地域の、ローカルルールである。
 しかしこのルールが設定されたことは、されてしまった事実は、グラリと世界を大きく揺らした。
 賛成派と反対派が激しく衝突して、交錯して、対立して、政治的で、感情的で、利己的で、民主的で、理想的な意見と暴力が振り撒いて、結局法律は成立した。
 ローカルルールとはいえ、それは法律だ。
 その法律を元にして、その事実を要にして、能力の規制はいずれ世界全体を覆い尽くす。
 ……まぁ、三年前には、もうとっくに僕は妹によって能力を壊されてしまっていたので、特に関心もなく「あぁそうなんだ」程度にしか考えていなかったが。
 妹は成立と同時に配布された腕輪をその場で粉々に破壊し、『腕輪を装着しなければならない』というルールそのものを壊した。
 その気になればその適用範囲を妹だけではなく、法律そのものを完璧に破壊もできたのだろうが、妹はそうしなかった。
 なぜそうしたのかは、僕にはわからない。
 壊れてしまった妹の心は理解できない。
 ……いや、たとえ壊れていなくとも、僕は理解できない。
 夢穂さんの心だって、理解はできないのだろう。
 時雨先輩は僕にならできるかもと言っていたが、しかしそれは買い被りである。
 まぁ、以前の僕にならそれは容易に可能なのだろう。
 妹に壊される前の僕になら、それはいとも簡単に理解できてしまうのだろう。
 能力。
 僕の能力。
 妹に壊されてしまった僕の能力なら、手足のように使える能力なら、それこそ手軽に妹や、夢穂さんのことを理解できるだろう。
 人の心を覗ける。
 それが、僕の持っていた、妹に壊されてしまった能力だ。
 たとえばこれが、自分が望んでいないにも関わらず他人の声が聞こえてしまう、だとかだったら、いい感じの悲劇的で同情の誘える鬱的な物語が綴れるのだろうが、しかし僕の場合は違って、自分の望んだときにだけ相手の心を覗けるという破廉恥極まりない能力である。
 秘密なんてものは無い。
 プライバシーなんてものは無い。
 自分よりも自分を知られる。
 そんな『ずるい』能力だ。
 しかしそれも昔の話。
 今の僕にはそれもできない。
 だがしかし、妹に言わせれば、そこには残骸がまだあるのだ。
 能力の残骸。
 それをうまく組み立てることができるなら、僕は夢穂さんの心が覗けるのだろうか。
 夢穂さんを理解できるのだろうか。
 僕は教室の扉を開ける。